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静寂が支配し、月明かりだけがやけに眩しい、そんな夜だった。
何枚目か数えるのも面倒な書類を黙々と読み、確認すると同時にサインをする。その作業に飽きて、暫し眼を瞑った。
周囲には誰もいない。門の前に憲兵と、後は夜番の人間が何人かいるはずだったが、自分が特に信頼している部下は誰一人として残っていない。特にたいした用事でもないから、と皆今日は早めに帰していた。
元々、人気のない深夜までの残業はそう珍しいことでもなかった。ただし、いつも優秀で美しい副官だけは側にいることが多かったが今日は違う。だが、彼女の方がここ最近はロイより余程激務だったから、早めに休むように、という言葉にも素直に頷いていた。最近はさほど事件らしい事件がなかったことも大きな理由だろう。
眼を開き、再び一枚、また一枚と書類の山を着実に減らしていく。くだらない仕事の一つではあるが、今はそれを楽しむ余裕もそれなりにあった。
これらの仕事は今後も数多く自分はこなさなければならないだろう。ただし、これからはもう少し書類の内容が変わる予定だった。近いうちに昇進は約束されている。自分が望む地位まで、一歩近づく。
それは今までの一歩とは少し違っていた。何しろ、それは上層部自体が大きく変化した末の昇進なのだから。
――――それも、自分の望み通りの変化故の。
口元にそっと笑みを浮かべ、ロイはまた一枚、サインを記す。
この国はやがて変わるだろう。おそらく、もう少し穏やかな明るい国に。ただし、軍事色が薄くなるかどうかはまだわからない。どのような色に染めたいのか、ロイ自身にも今となってはわからないからだ。
昔は違った。否、昔、と言うほど以前のことではないだろう。もっと自分は前向きで、美しい世界の建設を夢見ていたように思う。
世界の色彩はきっとその当時とそう変わらない。そうである以上、変わってしまったのは自分ということになる。
それが寂しいとか哀しいとか、むなしい、という気持ちはさほど沸かない。これから得るだろう権力に対して、心躍る、ということもなかった。それはすでに自分の中で当然の道筋であり、通過点として受け止められている。そしてそれは近い将来、現実となるだろう。ただそれだけのことだった。
人間とは不思議なものだ。けれど、それが人間なのかも知れなかった。愚かだ、と人ではない存在は言った。お前達は、あまりにも愚劣で卑小だと。
それは確かに事実なのだろう。人間とは愚劣で卑小な生き物だ。
それでも、日々を懸命に生きているのもまた確かだった。自分も、そして周囲の人間達も。すべて。
ひたすらに仕事に打ち込んでいたが、やがて足音が近づいていくることに気付いた。どうやら、少しばかりドアが開いていたようだ。
かつん、かつんかつん、かつん。
それは聞き慣れた群靴のたてる音ではなかった。最初はやや早歩きだったが、やがて急速にスピードを落とし、扉の目の前で音は止む。けれどそのまま、しばらく変化はなかった。
(……来たのか)
そう思い、口元に笑みを更に深く刻んだ。今日は約束の日だった。
あと数分でその日も終わる。つまり彼は本当にぎりぎりまでその時を延ばしたいのだろう。
それは当たり前のことだった。少なくとも、彼にしてみれば。
それでも彼はやって来た。それは約束であり、誓約だった。違えることは許されない。逃げ出すことを考えたのかも知れないが、彼はその道を選択しなかった。
時計へと視線を向ける。あと三分で明日になるな、と事実だけを確認してペンを走らせた。丁度書類の区切りも良い。我ながら良いタイミングだと思った。
ノックがないまま、扉が開いた。顔を上げれば、予想通りの人物が立っている。彼は俯いていた。
「珍しい格好だね」
赤いコートに黒い上下を身に纏うことが多い彼だが、今夜は黒いコートを着用している。まるで夜の闇に己を溶かすように。更に、フードでいつもなら目立つ金髪を覆い隠していた。
「……目立つわけにはいかねぇだろ」
声はひどく小さい。口調だけはいつものままだが、元気さというか、覇気はあまり感じられなかった。けれど、それも当然のこと。彼自身の選択とはいえ、それは苦渋の決断に違いなかった。
「そうだね。君が事実上、失踪する以上は目立って貰っては困るな」
頷きながら席を立った。そっと彼の頬にふれると、びくりと肩が揺れる。怖いのかも知れない。
彼は失踪する。皆の前から、その姿を消す。そしてその足跡は誰にも分かってはならない。当然、失踪直前にこの場所にいたことを知られてはならない。そうである以上、彼の言うとおり目立つわけにはいかなかった。いつもの赤いコートでは眼を引きすぎるからと、彼なりに気を使った結果らしい。実際問題、どんなに夜中に残っている人間が少ないとはいえ、いつもの格好の彼を見かけたならば、少なからず印象に残るに違いなかった。
赤いコートに金色の髪。その色彩は、あまりにも鮮やかな色だ。心奪われるほどに。
「良く来たね、鋼の」
そんなことを思いながら、いつも通り銘を呼ぶ。鋼の錬金術師。
本名のエドワード・エルリックよりも、その名の方が世には知れている。ロイにしても、彼のことを本名で呼んだことなどないに等しい。太陽色の髪と瞳を持つ、天才錬金術師。けれど、彼は一方でまだたった十六歳の少年でしかなかった。
「……約束だからな」
答える声は固い。緊張しているのだろう。
「彼の容体は?」
「意識が戻って、今日はオートミールを口にした。……もう、大丈夫だろうって医者も言ってた」
「そうか。それは良かった」
その言葉は本心だった。彼の大事な、大事な弟。そう、彼が彼の命よりも、自由よりも大事にしている存在。その名はアルフォンスと言い、兄のエドワードよりも穏やかで、強く、そしてかつては身体を失っていた少年。
「会話も、ちゃんとできるようになった。……あいつが、アルが、オレに笑いかけてくれた」
言って、エドワードは初めて微笑んだ。余程、その事実が嬉しかったのだろう。自分には見せることのない種類の笑顔だ。その事実に多少の苛立ちを感じたが、表には出さない。
「彼に別れは?」
次の質問に、彼は俯いた。表情が再び暗く、硬くなる。
そうして、やがてゆっくりと重い唇を開いた。
「告げられるはず、ないだろ」
「そうだね」
予想通りの言葉に頷く。当たり前だ。別れなど、告げられるはずがなかった。きっとアルフォンスにとっては青天の霹靂だろう。エドワードにとって、アルフォンスが大事な弟であるように、アルフォンスにとってもエドワードは大事な兄だ。互いが互いに支え合って生きていた。それなのに、兄が突然失踪するなどと、どうして思うだろう。
だが、それはすでに定められた現実だった。彼もそれを受け入れる気になったからこそ、この場所にいる。
「誰にも悟られてないかね?」
「そんなヘマ、誰がするか」
いかにも心外だ、と言わんばかりのその口調は普段の彼そのものだったが、どうにも勢いに欠けている。彼としても、自分で選択したとはいえ、不本意だったのは間違いない。
だが、それでも決断した以上はどんなに不本意でも撤回する気はないらしい。彼らしい真っ直ぐさだな、と思った。愚直さというべきかも知れない。
(もっとも、今更撤回する気になっても私の方が頷けそうもないな)
そんなことを思い、小さく笑った。彼は決断し、自分も頷いた。今更撤回などさせる気は毛頭ない。彼もそれは承知しているに違いなかった。
後戻りはできないし、させない。
書きかけの書類をちらりと見たが、それなりに枚数は減っている。今帰ったところで、特に問題もない。残りは明日で十分だ。今はそれよりも彼を連れ去ることの方が余程重要だった。
エドワードは答えず、ただ俯いている。表情は相変わらず硬い。もしかしたら、ロイが考え直すことを少しくらいは期待しているのかもしれない。
彼の右手を手に取り、甲に唇を落とした。いつもの彼ならば、勢いよく殴りかかるなり、手を叩くなりするだろう。盛大な怒鳴り声も必須だ。けれど、彼は微動だにしない。文句の一つすらも。それどころか、視線を決して合わせようとはしなかった。
「歓迎するよ」
笑顔で告げると、彼が弱く吐息を吐いた。それから、今度は小さな、けれど確かに聞こえる声で告げる
「あんたの、好きにすれば良い」
その言葉を聞くのは二度目だった。その言葉を、微笑みながら聞き入る。無論、そのつもりだ。
だからロイは笑顔のまま、彼に囁く。
「では、行こうか」
ぎこちなく、けれどゆっくりとエドワードは頷き、そして二人で歩き出した。
聞こえるのは二人分の足音だけだ。どこまでも静かで、そして心地の良い夜だった。
窓から漏れる淡い月の光は彼の髪と瞳を連想させる。暗闇の中、その月明かりは幻想的ですらある。
そういえば、とロイは思う。
(そういえば、あの夜もこんな夜だったな)
違うのは月の形が違うことくらいだろうか。だが、その程度の差はロイにとってたいした意味は持たない。
今日も、あの夜も。どちらも自分にとっては良い夜だった。暗闇が覆う中、月だけが美しい、そんな夜。
ありふれた、だが今日とあの日だけはロイにとって特別な夜だった。そしておそらく、これからも特別であり続けるだろう。
エドワードに視線を送れば、彼は黙々と歩いている。俯いていて、表情は見えない。その様も、あの夜と同じだった。
それは時間にすればそう昔のことでもない。わずか数日。けれど、それは自分にとってもエドワードにとっても長く、そして短い数日だった。
これで良いのか、と思う自分は確かにいる。自分は彼に笑って欲しかったのではなかったか。幸福になって欲しかったのではなかったのか、と。
考える時間はそれなりに存在していた。そして自分は結論を下し、――――こうして彼を連れて歩いている。
彼の幸福を願っていた。それは真実だ。偽りなどなかった。けれど、それ以上に自分は彼を欲しい、と望んだ。彼の幸福よりも、更に切実に。
自嘲の笑みが浮かんだ。彼の幸福の代わりに、自分が幸福を得る。つまりはそういうことだった。それが彼が自分に差し出した代価だ。彼、自らが差し出した。
誰一人、顔を合わせることのないまま長い廊下を抜け、外へ出た。これから向かう門の門番は残念ながら不真面目で有名な上、今日は給料日だからまずまともに任務をこなしてはいないだろう。いつもなら立腹するか呆れる相手だが、そんな人間が当番と知っているから、という理由もあって今日を指定した。
エドワードが今日、自分の元に来たことは誰も知らなくて良い。例え誰かと逢ったところでいくらでも誤魔化す方法はあったが、運良く誰とも会わないのなら、その方が無論都合が良かった。エドワードも細心の注意を払ってここまでやって来た様子だから、例えエドワードが行方不明になったからと彼の弟が必死に探したところで、その痕跡は辿れないに違いない。
そうして、あるのは沈黙だけだ。相変わらず、エドワードは何も言わない。ただ、殉教者のようにロイに従い、歩き続ける。
意味もなく、空を仰いだ。闇と月明かりが世界を統べている。良い夜だ、ともう一度思った。あの夜と同じくらい、良い夜だ、と。
本当に、あの夜は良い夜だった。
――――彼が自らを自分に売り渡しに来た、あの夜は。